岩隈 久志
HISASHI IWAKUMA
Special Interview
現在、少年野球の指導にも携わる岩隈久志さん。
その指導には、ケガによって成長できた経験が生きているという。
そんな岩隈久志さんの成長秘話に迫ります。
2007年、東北楽天ゴールデンイーグルスのエース・岩隈久志がマウンドから降りる。
5勝5敗。不本意なシーズンを終えた岩隈……。
右肩と右肘の違和感を騙し騙し投げ続けてきたが、その右肘はこのときすでに、曲げるだけで痛みが走っていた。
「もうダメかもしれない……」
現役生活最大の壁は、岩隈にとって暗闇にしか見えなかった。
岩隈久志は東京の堀越高校を卒業後、ドラフト5位指名で当時の大阪近鉄バファローズ(2005年、現オリックスバファローズに吸収合併)に入団。2年目の2001年シーズン後半から先発ローテーション入りを果たすと、2003年、2004年シーズンには連続15勝を挙げ、若きエースとしてチームを牽引する立場に立ったのである。この活躍が、プロ野球選手として大きな自信になったことは間違いない。
そして同時に、よくも悪くも
『強烈なまでのプライド』を
岩隈に植えつけた。
自分を中心に世界が回っているような感覚、それは時に傲慢に映ったこともあるだろうと、岩隈は当時を振り返る。そんな折、所属球団の消滅、新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスへのトレードという転機が訪れた。だが、負の連鎖もこのとき始まろうとしていた。
2005年、エースとして新天地に
迎えられた岩隈は燃えていた。
ところが、シーズンが始まって間もなく、右肩に違和感を覚える。思えば、これがプロに入って初めてのケガだった。結局、この年は9勝止まりで、3年連続の二桁勝利を逃すと、翌年も右肩の痛みを引きずり、わずか1勝に終わってしまう。
そして、勝負の年と定めた運命の2007年。開幕戦の試合開始直前、背中の違和感で緊急登板回避すると、5月には左わき腹の肉離れ、さらに件の右肘痛……。思うに任せないイライラが募ったのか、双方の誤解から試合中のベンチ裏でコーチの一人と乱闘寸前の騒ぎを起こしてしまう。
心身ともにボロボロになりながら、
プライドだけで投げ続ける。
限界は近づいていた。
結局、自身の2007年シーズンを5勝5敗で終えた岩隈は、10月に右肘の軟骨除去手術を受ける。順調に回復すれば、来シーズンには間に合うと診断されたからだ。だが、保証はない。プロ野球人生最大の壁を前に、暗澹たる思いに埋没してしまう。
このとき、岩隈を救ったのは、自分では成す術もないが故に生まれた『時間』だった。『自分がなぜ、この場(プロ野球界)で野球ができているのか?』冷静になって振り返ることができた。
もちろん、岩隈自身の実力あってこそだが、活躍の機会を与え、期待を寄せてくれる人々なくして、今日の岩隈久志は存在し得なかったのだ。絶望の中にいたからこそ気づけた、感謝の思い。「しっかり治してマウンドに帰ることが、周囲の期待に報いる唯一の方法でした」そして、岩隈の復活への道を支えたのは、家族の献身だった。
「自分の気持ちの浮き沈みに関わらず、普段と変わらない生活を心がけてくれて、それにどれだけ救われたか分かりません」
独りよがりのアスリートの限界は浅い。、
自分の置かれた環境が、当たり前のものではないことに気づけたとき、
彼らは真の強さを手に入れる。
右肘痛の癒えた岩隈は、2008年シーズン、自己最多の21勝を挙げた。
その後もWBC優勝への貢献を始め、MLBシアトルマリナーズで野茂英雄に次ぐ日本人投手2人目のノーヒットノーランを達成するなど、10年に亘って第一線での活躍を続けたのだ。
現在、少年野球の指導にも携わる岩隈。その指導には、ケガによって成長できた経験が生きているという。
「感謝の気持ちを持ってプレーする子は、
やっぱり伸びますね」
岩隈 久志
HISASHI IWAKUMA
Profile
1981年4月12日、東京都東大和市出身。
堀越高校3年時に夏の西東京大会ベスト4。1999年のドラフト会議で大阪近鉄バファローズ
から5位指名を受け入団。2年目に4勝を挙げて頭角を現すと、03年から2年連続15勝。04年に
は最多勝、最優秀投手に。05年に東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。08年シーズンに単
独投手三冠(最多勝、最優秀投手、最優秀防御率)を達成する。11年オフにFA宣言後、ML
Bシアトル・マリナーズに入団。13、14年と2年連続2ケタ勝利。15年にはノーヒッターも記録。
16年は自己最多の16勝を挙げる。20年に現役引退を表明し、21年にマリナーズの特任コーチへ
就任。22年には硬式野球チーム「青山東京ボーイズ」を立ち上げ、中学生の指導を行っている。