星野 伸之
NOBUYUKI HOSHINO
Special Interview
目の前に立ち塞がった、とてつもなく巨大な壁。
星野伸之さんは、いかにその壁を乗り越え、成功を掴んだのか。
独占インタビューでその内面に迫ります。
通算176勝、2041奪三振の輝かしい成績を残した、
プロ野球パリーグを代表するレジェンド左腕、星野伸之。
そのストレートは、130キロにも満たない。
だが、名だたるスラッガーたちのバットが面白いように空を切る。
野球の知識が薄い者は不思議に思っていた。
『なぜあんなに遅い球が打てないのか?』
その理由は、星野が武器の一つとしていた山なりのスローカーブにある。
球速は100キロにすら届かず、緩急の差で彼のストレートは体感150キロに達していたという。
そんな星野が、18年の現役生活で最も大きな壁にぶち当たったのは、
まだ昭和のころ、一軍定着を目指して遮二無二なっていた若手時代だった。
ペナントレース、秋田で開催された近鉄バファローズ(後にオリックスバファローズに吸収)戦。阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)の先発マウンドに立った星野は、いきなり初回、猛牛打線(当時の近鉄打者陣のニックネーム)につかまり、1アウトを取ったのみでノックアウトされてしまう。本来、この1試合だけならショックも薄かっただろう。ところが、次の登板機会となった西武ライオンズ戦でも、星野は1アウトを取ったのみでノックアウトされてしまったのだ。「よっぽど打たれない限り、3分の1回で交代なんてあり得ないんですよ。それが2試合続いたわけですから、あぁもう終わったなと」自分の球は1軍では通用しない、2軍に逆戻りだ……。星野はむしろそれを望んだ。絶望、恐怖心、さまざまな負の感情が彼の脳裏に渦巻く。
眼の前に立ち塞がった壁が、
とてつもなく巨大なものに見えた。
結論を先にいってしまえば、星野がプロ野球人生最大の壁を乗り越えるには、多くの時間を必要とはしなかった。当時の上田利治監督や植村義信ピッチングコーチは間を置かず、星野に次の先発をいい渡したのだ。二人とも鬼籍に入った今、その真意を知ることはできないが、仲の良いチームメイトだった古溝克之氏は推測する。
「育てようという親心、
愛のムチ、だったと思いますね」
しかもそのころ、山田久志、佐藤義則といったチームのレジェンドピッチャーたちに引退の文字がちらつき始めていた。新たに軸となるピッチャーが渇望されていたのだ。
無論、星野はそんな思惑を知る由もない。
「何でだよ! 2軍に落としてくれよ、というのが本音でした。投げたくなかった」そんな後ろ向きの思いがくみ取られるはずもなく、また首脳陣の決定に逆らえるはずもなく、星野はマウンドに立つ。もう開き直るしかなかった。愚直なまでにキャッチャーのサインどおり、キャッチャーミットの構えられた場所にボールを投げ込む。今、自分ができることを全力でやった結果、4失点するものの、打線の援護もあって勝利投手に!星野はこのときのことを、自分の持ち味を理解できた瞬間だったと振り返る。「キャッチャーのサインどおりに投げるには、1球1球丁寧なピッチングを意識しないとダメなんです。そもそも僕には、力でねじ伏せるようなピッチングはできないんですから」緩急をつけた丁寧な投球で、打者のタイミングをズラす―光明が見えた。
どん底状態からつかみ取った勝利。
この試合を境に、
星野の中に意識改革が起こる。
遅いボールを最大限に生かす投球術はもちろん、試合にベストの状態で臨むためのコンディション作りなど、1軍で戦い続けるための方法を常に思い、実行していったのだ。そして気づけば、11年連続2桁勝利。[最も遅い剛速球投手]星野伸之は覚醒した。
アスリートがどん底に陥ることは、決して珍しいことではない。
だがこのとき、誰かの力を借りてでも、無理やり立ち上がることで見えるものは確かにある。
星野は、あの強行登板命令を振り返る。
「あれがなかったら、僕は2軍に逃げて、それっきりになったと思いますね、間違いなく」
そして、星野が150キロの速球を投げられなかったように、
才を持たざる者が生き残っていくためには何が必要なのかも、彼は示してくれた。
「どれほど考えても、
考えすぎることはありません。
そのうえで出た答えに、
自分自身が素直に従えるかどうかが大事なんです」
すぐに結果が出なければ、不安や迷いを覚えるだろう。
それでも未来を信じて継続した先に、栄光の道は開けていくのだ。
星野 伸之
NOBUYUKI HOSHINO
Profile
1983年1月31日生まれ。北海道出身の元プロ野球選手。
旭川工業高校からドラフト5位で阪急ブレーブスに入団。プロ2年目の1985年にプロ初勝利をあ
げる。1987年にはリーグ1位の6完封を記録し11勝を挙げる活躍。以降1997年まで11年連続
で2桁勝利を挙げ、1995年、96年のリーグ制覇にエースとして大きく貢献。オールスターゲーム
にも7回出場。2000年に阪神タイガースに移籍し、2年連続で開幕投手を務めた。2002年に現役
を引退。通算勝利数は176勝、2000三振を奪っている。2010年から17年までオリックスで投手
コーチを務めた。2018年からは野球解説者として活動し、野球教室など普及にも務めている。