小谷 実可子
MIKAKO KOTANI
Special Interview
努力は必ずしも報われるとは限らない。それでも、地道に努力をし続けた小谷実可子さん。
その道の先で彼女は何を得たのか。
水面から伸びる、
長く均整の取れた手足が美しく舞う。
1984年ロサンゼルスオリンピック代表の座をかけた、
シンクロナイズドスイミング(現・アーティスティックスイミング)日本代表選考会。
それは17歳の少女による渾身のパフォーマンスだった。
だが、採点競技であるが故のいたずらなのだろうか。
小谷実可子が代表に選ばれることはなかった。
『やっぱりな……』
あきらめにも似た自嘲の笑みを浮かべると、小谷は会場を後にした。
『もう、シンクロはやめよう』
アスリート人生最大の壁を前に、あらがう気さえ起こらなかった。
たった12歳のころから日の丸を背負い、海外を舞台に戦ってきた小谷は、日本アーティスティックスイミング界の星だった。15歳になると、当時世界ナンバーワンの実力と選手層を誇っていたアメリカへ留学。最新最高のメソッドを学んだ。この間、アメリカ国内のジュニア大会で優勝を飾るなど、小谷の評価は高まるばかり。
「自分の戦うべき相手は世界。
オリンピックのメダルも
夢じゃないと思っていました」
ロサンゼルスオリンピック出場を視野に帰国した彼女は、自信に満ちあふれていた。
そんな小谷を待ち受けていたのは、日本国内の大会での信じられない低迷だった。調子が悪いわけじゃない、ケガや病気もない。アメリカ仕込みの技を自信満々に披露するも、それに見合う(本人はそう思っていた)点数が出ないのだ。優勝はおろか、これまで負けたことのないい同年代の選手にも後れを取る始末。「日本の審判は、アメリカで成長した私に意地悪をしているんだって、本気で思いました。納得なんてできませんよ」そして、オリンピック代表選考会が小谷にとどめを刺す。無理やり挫折させられたような気分に陥った彼女は、以降、プールから姿を消してしまった。
どん底に落ちた
アーティスティックスイミング界の星
小谷実可子。
だが、わずか4年後には、ソウルオリンピックのソロ部門とデュエット部門で、2つの銅メダルを獲得している。
いったい彼女に何が起こったのか?
それは、投げやりな気持ちでプールから逃げた(休養期間)に、気づきのきっかけを得たからに
他ならない。「プールから遠ざかったことで、逆に自分がどれだけシンクロ(アーティスティッ
クスイミング)が好きなのかを思い知らされたんです」すると不思議なもので、低迷時にはずっ
と耳をふさいできた、師でありナショナルチームの指導にも携わる金子正子氏のアドバイス
が、スッと胸に落ちたのである。
『日本で勝ちたいなら、日本の審判が重点を置く基本動作を徹底的に磨くこと。それは海外の試合でも生きてくる』思えば、アメリカでは基本練習に重きが置かれず、小谷自身も必要ないと思い込んでいた。今さら基本なんて、と馬鹿にする気持ちがあったことも否めない。それでもプールに戻った小谷は、地味な基本練習に明け暮れた。
「とにかく信じてやってみようと。
効果はすごかったです」
努力の末に、基本の所作に安定した美しさが備わると、副産物としてアメリカ仕込みの技の精度も増していた。
当然のように結果も伴ってくる。1985年から全日本選手権4連覇。海外の試合でも表彰台の常連となった小谷は、
1988年のソウルオリンピックで件の結果を残し、大輪の花を咲かせたのだ。
努力は必ずしも報われるとは限らない。
だが、アスリートの成功は、
地味な努力の向こうにしか存在しない。
小谷は図らずも一旦立ち止まることで、『努力の尊さ』を知ったのである。
それは、彼女のその後の人生にも生かされ、50歳を過ぎてからの競技復帰、57歳でのマスターズ水泳アーティスティックスイミング金メダルへとつながっていった。
小谷 実可子
MIKAKO KOTANI
Profile
1966年8月30日生まれ、東京都出身。日本大学文理学部卒業。幼少の頃から才能をみせ、高等学校は単身米国にアーティスティックスイミング(旧・シンクロナイズドスイミング)留学した。日本代表となると、ソウル五輪では初の女性旗手を務め、ソロ・デュエットで銅メダルを獲得。日本シンクロの女王に君臨したが、プール外に活動の幅を広げるために休養し、その間に長野五輪招致に携わる。バルセロナ五輪を視野に復帰して代表となったが、本番では出場機会を得られず同大会の後に引退した。国連総会に民間人として初めて出席した経験を持ち、五輪・教育関連の要職に数々抜擢。世界大会のリポーター、東京2020招致アンバサダーを務めるなど国際的に活動する一方、自身がコーチを務めるクラブでアーティスティックスイミングの魅力を伝承している。