入江 陵介
RYOSUKE IRIE
Special Interview
悪夢のリオから復活を遂げた入江陵介さん。
何が彼を動かし導いたのか、再生へのプロセスを紐解きます。
「これ以上、
何をすれば金メダルに手が届くのか、
まったく分からなくなっていました」
2016年のリオデジャネイロオリンピック。
入江陵介は背泳100mで7位、得意の200mで8位に沈み、
期待された金メダルがその手からすり抜けた。
世界の頂点に立つために、あらゆる犠牲を厭わず、いかなる努力も惜しまず、
ひたすらに戦い続けてきた男が、ついにその泳ぎを止めた。
いや、止まってしまったというのが正解だろう。
「結果がついてこない自分には、もう未来はない……」
恋い焦がれた金メダルの前に立ちはだかった、巨大な壁。
競泳人生で初めての挫折に、入江は成す術がなかった。
1990年生まれの入江は、0歳児のベビースイミングでプールに入って以来、順風満帆の成長を遂げてきた。15歳での背泳100mと200mの日本中学新記録樹立を皮切りに、日本高校記録、日本記録、そしてアジア記録を幾度も更新。日本で入江に迫るスイマーはいなくなっていた。体の軸がブレず、水の抵抗が少ない『省エネ泳法』は、世界一美しいフォームともいわれ、その特長を生かしたラストスパートで、入江は国際大会の舞台でも躍動する。
次は世界の頂。
それは彼にとって必然だった。
オリンピックでは18歳で初出場した北京で、背泳200m5位入賞。そして続くロンドン大会では100m銅メダル、200m銀メダル、さらに400mメドレーリレーでも銀メダルを獲得し、世界が『入江』の泳ぎを称賛した。
それでも彼は満足しない。
『入江は世界的に優れたスイマーだが、頂点に立ったことがないのは不思議でしかない』そんな評判を覆すべく、このときまだ22歳の青年は、熱い血をたぎらせたのだが・・。4年後のリオオリンピック。打ちひしがれた入江の姿を、誰が想像できただろうか。入江は敗北の理由を、自分に何度も問いかける。よりパワフルな泳ぎを求めての筋力アップも、効率的な泳法を崩さないよう慎重に行ってきたつもりだ。その効果は、2014年のパンパシフィック水泳での金メダル獲得に現れている。
ならばオリンピックで勝つには、
いったい何が足りなかったのだろうか?
答えを求めて迷走する入江。年齢的にも、これからは1年1年が勝負になる。しかし打開策は見いだせないまま、彼は心身を追い詰められていった。翌2017年、一筋の光明が見えた。日本で衆人の目にさらされることに限界を感じていた入江は、トレーニングの拠点をアメリカに移すことを決意する。アメリカの生活では日本の情報からあえて遠ざかり、日本への連絡も極力控えた。また日常生活でも、日本ではやらなかった自炊や車の運転をすることで、オンオフの切り替えを明確にしたという。「水泳のことを考える時間を少なくしたことで、水泳のためだけに生きる偏った考えから、人として自立できたような気がします」これが功を奏し心にゆとりが出きた入江は、持ち前の向上心が蘇り再び世界の頂に目を向けることができたのである。
悪夢のリオから2年後の2018年、入江はパンパシフィック水泳選手権で4つの銀
メダルを手に入れ、完全復活を印象付けた。
アスリートにこそ
オンオフの切り替えは重要であり、
それによって高い集中力が発揮できる。
入江は自ら、それを体現して見せた。
2024年4月3日。
パリオリンピック出場を目指していた入江は、
前年の肩の負傷が癒えず(そのためフォーム改造を余儀なくされていた)、
現役引退を発表する。
34歳3カ月、トップスイマーとしては異例の長寿と言えるだろう。
悲願のオリンピック金メダルには手が届かなかったが、
会見での涙は清々しく、そこには一片の悔いもなかった。
「アメリカでの日々がなければ、
これほど長く現役を続け、
水泳を楽しむことは
できなかったと思っています」
入江 陵介
RYOSUKE IRIE
Profile
1990年1月24日生まれ。大阪府出身。イトマン東進所属。2012年4月1日株式会社ナガセ入社。0歳から水泳を始め、中学の時に種目を背泳ぎ一本に絞る。 高校1年の時、はじめての高校総体200m背泳ぎにおいて優勝。 2011年8月に行われたユニバーシアードで三冠を達成。2012年ロンドン五輪では200m背泳ぎの銀メダル含め3個のメダルを獲得。2016年リオ五輪出場。2020年東京五輪に出場し、4大会の五輪日本代表となり、 2022年国際大会日本代表選考会にて7大会連続の世界水泳日本代表選手となった。2024年4月に現役引退を表明。今後は水泳の普及活動に挑戦予定。