


松井 大輔
DAISUKE MATSUI
Special Interview
指導者として壁にぶつかりながらも、その先に一筋の光を見出した松井大輔さん。
彼は何を経験して、何を得たのか、今まで語らなかった心の内側に迫ります。

「(……言葉が出てこない……)」
グラウンドで夢いっぱいのジュニア選手を前に、彼は茫然としていた。
松井大輔。2010年W杯南アフリカ大会、本田圭佑や長友佑都らと共に輝きを見せたレジェンドだ。
2024年2月に現役引退を表明し、
春には横浜FCのサッカースクールコーチに就任(浦和レッズアカデミーのロールモデルコーチを兼任)。
指導者として、第二のサッカー人生を歩み始めたばかり。
Jリーグはもとより、フランスやポーランドなどサッカー強国での豊富な経験が、育成に生かされることを期待されていた。それなのに……。
松井大輔コーチ。その一歩目で選手時代には感じたことのない巨大な壁に、行く手を阻まれてしまった。
「(ジュニアたちの)
未来をつぶしたくない……」
上手に導いてやれない自分の不甲斐なさに、松井は天を仰いだ。選手時代の松井は、早くから海外志向を明確にしていた。高校進学時にはサッカー大国フランスへの留学を真剣に考えていたほどだ(実際には、父親の説得で鹿児島実業に進学)。卒業後は京都パープルサンガで3シーズンを過ごした後、念願のフランスに旅立つ。以降は日本と欧州各国のプロチームを渡り歩き、23年間の現役生活をまっとうした。
自分が思い描いていたとおりのサッカー人生だが、苦労がなかったといえばウソになる。むしろ苦労のほうが多かったという。
「試合に出られるかどうか、
いつもギリギリの戦いを
していたように思います」
だが決して腐らず、たゆまなく己の技と心を磨き続けた。そんな酸いも甘いも知り尽くした経験が、次世代を担うプレーヤーの礎になる。周囲も松井自身もそれを期待していたのだ。
「自分がプレーしていたときに見えていたもの、そこにどうやって到達できるかを伝えるべきなのでしょうけど、その方法論を持っていなかったんです」これは、選手が指導者に転ずる際の[あるある]らしい。過去には数多の選手が指導者を志し、断念し、サッカー界から消えている。だが松井は、ここで『導くこと』をあきらめなかった。
サッカーへの愛、
サッカーに志を持つ者への愛が、
そうさせたのに違いない。
「片っ端から、諸先輩たちに連絡を入れました」
松井は[指導者]になるべく、Jリーグの現役監督や、さまざまな場所でコーチをしている旧知の諸先輩と連絡をとった。自分が指導している様子を収めた映像を添えて。
「厳しい言葉が多かったですが、みんな応援してくれたのがうれしかったですね」ここで松井は、選手とコーチの差を改めて痛感する。導く側に必要なのは、確かなサッカー理論と、それを実践するための方法論であり、それらすべてを言葉にする力なのだ。
「一足飛びにできることじゃないんです。
経験を積んで、(指導法の)引き出しを
増やしていかないと」

現役アスリートが誰かを導くのであれば、その背中で範を示してやればいい。
指導者が誰かを導くのであれば、言葉で理解を広める必要がある。
松井がとるべき道は、最初から後者でなければならなかったのだ。
選手時代の経験がどれだけ有意義なものであっても、
確かな理論に落とし込んで伝えなければ、
決して理解は得られない。
指導者として生きていくために、一筋の光を見出したレジェンド・松井大輔。
彼は今、自身が信じる理論を構築し、それを実践してもらうための練習メニューを
[引き出し]として増やし続けている。
松井 大輔
DAISUKE MATSUI
Profile
1981年5月11日生まれ、京都府出身。鹿児島実高から2000年に京都に加入し、04年に当時フランス2部のル・マンに移籍。その後はサンテチエンヌ、グルノーブルなどフランスのクラブのほか、トム・トムスク(ロシア)、スラビア・ソフィア(ブルガリア)、レヒア・グダニスク(ポーランド)などでプレー。14年Jリーグのジュビロ磐田復帰を経て、ポーランドのオドラ・オポーレへ移籍。18年からは再びJリーグ横浜FCでプレーし、2020年12月にはサイゴンFCへ加入。持ち味の創造性あふれるプレーで各クラブで活躍。08年にはワールドカップ南アフリカ大会に日本代表として出場。ベスト16入りを果たす。21年にFリーグのY.S.C.C.横浜に加入し、プロフットサル選手に転身。Fリーグ・Jリーグクラブを保有するY.S.C.C.の特性を生かし、22シーズンより選手登録をし、サッカー・フットサルの二刀流で活躍。24年に現役引退をし、横浜FCスクールコーチ、浦和レッズアカデミーロールモデルコーチに就任。更にはFリーグの新理事就任など幅広く活躍をしている。