CROSSOVER BOOK | AUG 2022

心を動かすスポーツ SportsDocument CROSSOVER BOOK003

大久保嘉人

熱き闘争心の果てに[サッカー元日本代表]

アスリート人生に壁が立ち塞がったならば。それは自分が成長するチャンスが訪れたと言うことだ。

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大久保 嘉人

YOSHITO OKUBO

Special Interview


自分が必要とされているか否か……たった一人でもいい、
その期待と願いは、アスリートの眠っていた心を呼び覚ます。
史上初のJリーグ3年連続得点王に輝いた大久保嘉人さんの、
挫折から再び情熱の炎が灯すまでの心情に迫ります。

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Special Interview YOSHITO OKUBO

ー 2010年FIFAワールドカップ南アフリカ大会。

その決勝トーナメントの大舞台に、
大久保嘉人は立っていた。


グループリーグでは、左サイドハーフのポジションで3試合に先発出場。
攻守にわたる活躍で、決勝トーナメント進出に大きく貢献する。結局、
個人の得点こそなかったが、大久保の心は満たされていた。世界に日本
サッカーの力を、そして大久保嘉人の名を知らしめることができたからだ。

「これ以上ない、サッカー人生最高の瞬間だと思っていました」

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Special Interview YOSHITO OKUBO

異変は、
帰国後のJリーグ戦で起こった。


当時、ヴィッセル神戸に所属していた大久保は、対湘南ベルマーレ戦に、当たり前のように先発出場する。持ち前の運動量で全力プレー・・していたはずだった。

現に体は極度の疲労に襲われている。「もう試合終盤だから仕方ない・・本当にそう思ってたんです」だが実際には、前半2分を経過したばかり。燃え尽き症候群、その典型的な症状のひとつだった。

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Special Interview YOSHITO OKUBO

以降、ケガによる長期離脱も手伝い、大久保のプレーは精彩を欠く。2012年、ヴィッセル神戸のJ1リーグ降格の危機にも、大久保が機能することはなくチームは降格。シーズン終了後には、実質の戦力外通告を受けてしまう。「Jリーグにはもう自分の居場所はない。アジアのチームにでも行こうかと思いましたけど、甘くはないですよね」

オファーはゼロ。

「もう、俺はダメかもしれない……覚悟できたようでできていない、そんな中途半端な気持ちの中にいたような気がします」この時、すでに30歳。大久保嘉人のサッカー人生に、最大の壁が立ちふさがっていた。

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Special Interview YOSHITO OKUBO

状況を一変させたのは、
一本の電話だった。


電話の主は、当時川崎フロンターレのGMを務めていた庄司春雄さん。以前から大久保のサッカーに惚れ込んでいた彼からの、直々のオファーだった。ところが、大久保はこのころ、Jリーグに見切りをつけていたことに加え、自信も失っていた。なんと現役続行のチャンスに、一度は態度を保留してしまう。この時、大久保の背中を押したのは、妻・莉瑛(りえ)さんの一言だった。

「このままじゃ、忘れられちゃうよ」

数日後、フロンターレにオファー受諾の返事を入れた。

フロンターレ入団決定後、さらに大久保の心を動かしたのは、チームの大久保嘉人獲得の経緯を知った時だった。大久保は、良くも悪くも闘争心の塊のような選手だ。ピッチの内外で強気な態度と発言を繰り返し、無用な警告や退場処分を受けることも少なくなかった。庄司GMが、大久保獲得を提案すると、チームの和を乱すことを恐れた反対意見が続出する。それでもあきらめない庄司GMの説得が続く中、新任の風間八宏監督(当時)は、GM支持を打ち出した。「今のフロンターレには、大久保のような刺激が絶対にプラスになる」これを聞いた大久保が、意気に感じないわけがない。

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Special Interview YOSHITO OKUBO

長くプレーに精彩を欠いていたことが嘘のように、
彼は再び輝き始める。
入団初年度から、J1リーグ史上初の3シーズン連続得点王を獲得し、《史上最強のストライカー》の二つ名がつけられたのだ。自分が必要とされているか否か……たった一人でもいい、その期待と願いは、アスリートの眠っていた心を呼び覚ます。再び情熱の炎が灯った大久保嘉人にとって、立ちはだかる壁を打ち破るのは、たやすいことだった。

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大久保 嘉人

YOSHITO OKUBO

Profile


1982年6月9日生まれ、福岡県出身。
国見高3年時に高校3冠を達成し、インターハイと高校選手権で大会得点王を獲得。
2001年にセレッソ大阪に入団し、03年には日本代表デビューを飾る。
04年にはアテネ五輪に出場、10年にはA代表の主力として南アフリカW杯ベスト16進出。
その後、マジョルカ、ヴォルフスブルクなど海外でのプレーを経てJリーグに復帰。
13年に川崎フロンターレに移籍し、1年目でキャリア最多26ゴールを決めると、
史上初のJリーグ3年連続得点王の偉業を達成。
更に歴代最多となるJ1通算191得点にゴール数を達成し、21年11月19日に現役引退。