
太田 雄貴
YUKI OTA
Special Interview
若くして日本フェンシング会のトップに躍り出た、太田雄貴さん。
日本フェンシング会初のオリンピックメダルを期待された彼は、突如としてスランプに襲われる。
その状況を如何に抜け出したのか、心の内側に迫ります。
インターハイ3連覇、17歳での全日本選手権優勝、
さらに18歳で初出場したアテネオリンピックではフルーレ個人9位。
若くして日本フェンシング界のトップに躍り出た、太田雄貴。
次の照準に合わせるのは、2008年北京オリンピック[日本フェンシング界メダル第一号]。
意気揚々と頭上高くサーベルを掲げ、世界の猛者たちに戦いを挑んでいった。
そんな太田が、突如まったく勝てなくなってしまった。
海外ではもちろん、国内でも同世代の選手に後れを取る始末……。
『もう辞めてしまおう』
競技人生最大のピンチに、太田のストレスはピークに達していた。小学校3年生でフェンシングを始めた太田は、計画と実行を重んじる選手だった。きっかけは1996年の夏。指導を仰いでいた市ヶ谷廣輝氏が、オリンピック2大会連続(バルセロナ、アトランタ)で一回戦負けを喫していることを知ったときだ。
「あんなに強い市ヶ谷さんが勝てないオリンピックというものに、ものすごく興味が湧いたんです」日本フェンシング界では至難の業とされていた[オリンピックでの勝利]。
それができたらどれほどカッコ良いか。
いかにも子供らしい発想だったが、太田は本気だった。
「それからしばらくして、22歳で迎える2008年(北京開催決定前)のオリンピックで、日本フェンシング界メダル第一号になると目標を定めました」
それがどれほど難しいことかも
理解していた。
だからこそ、そこに到るまでの計画も綿密だった。「インターハイ3連覇で歴史に名を残して、高校2年までに全日本選手権に出場してナショナルチーム入り。そして大学1年で迎えるアテネオリンピックに出場して、経験を踏むところまでは順調でしたね」
綿密とはいえ、常人離れしているのは間違いない。その間には大きなケガもあったが、それすら織り込み済みなのだから、恐れ入る。
だが、順調なのはここまでだった。
2004年アテネオリンピック後、フェンシングの有効打突に関するルールが変更された。それまでは500グラムの力が1/1000秒加われば得点として認められたのだが、変更後はそれが14/1000秒必要となったのだ。機械判定でなければ分からないミクロの世界。だが、相手の背中を剣先で掠らせるような突きでポイントを奪う太田の得意技には、そのルール変更が不利に働いた。しかも、アテネオリンピック9位の実績により太田はライバルたちから研究され、二重の意味で勝つことが難しくなっていたのである。
『もう辞めてしまおう……』
もちろん、解決の糸口はあった。2003年からナショナルチームのコーチに就任していた、マツェイチュク・オレグの指導が、新ルールに適していることを分かっていたからだ。だが太田は、それまで(計画どおりに)培ってきたフェンシングを捨てることができなかった。勢い、近くにいるオルグコーチを認めず、反抗的な態度すらとっていたという。「オルグの指導を受ける仲間たちが、続々僕より上の結果を残しても、たまたまだと無視を決め込んでました」
ところが、あるとき太田は決定的なダメージを受け、心変わりする。大学3年の11月、2連覇中の全日本インカレ決勝で、1年生選手に敗北を喫してしまったのだ。
「インカレタイトルを守ることが、僕の最後の心の支えだったんです。
でも、負けてつき物が落ちたというか、プライドもへったくれもなく、
オルグに頭を下げてました。『勝たせてくれ』って」
強烈なまでのプライドは、
トップアスリートたる必要不可欠な条件。
だがそれは時に、
進化の足かせになることもある。
プライドを捨て、かたくなな心を開いた太田は、オルグコーチの指導の下、瞬く間に蘇った。
かねてより照準を合わせていた2008年北京オリンピックで、フルーレ個人銀メダルを獲得!
日本フェンシング界メダル第一号、幼いころからの大目標を、計画どおりに達成したのである。
しかも、続く2012年ロンドンオリンピックでは団体銀メダルを。
そして、2015年の世界選手権ではフルーレ個人で世界の頂点へと昇りつめる。
傍らには、いつもオルグコーチの姿があった。
太田 雄貴
YUKI OTA
Profile
1985年11月25日生まれ、滋賀県出身。競技経験者の父親から勧められ、小学生3年生からフェン シングを始める。小学校で全国大会の優勝を経験するなど早くから頭角を現し、平安高校では史 上初となるインターハイ3連覇を達成。全日本選手権を史上最年少の17歳で制した。08年北京オ リンピック競技大会男子フルーレ個人で銀メダルを獲得し、日本フェンシング界初のオリンピッ クメダリストとなる。12年ロンドンオリンピック競技大会のフルーレ団体で銀メダル、15年の世 界選手権では日本人初の金メダル獲得。現役引退後の17年、32歳で日本フェンシング協会会長に 就任、数々の改革を手掛ける。21年より国際オリンピック委員会 アスリート委員、22年公益財団 法人 日本オリンピック委員会理事に就任。22年より江副リクルート財団 リクルートスカラシップ スポーツ部門 選考委員を歴任。WIN3株式会社、Sports3プロジェクト発起人なども務める。