
上田 桃子
MOMOKO UEDA
Special Interview
2011年、アメリカの厚い壁に心と体が圧しつぶされそうだった25歳の上田桃子さん。
出口の見えないスランプを彼女は如何に乗り越えたのか、その内面に迫ります。
『もう日本に帰りたい! 帰る!』
母への電話で、感情も露わに泣きながら訴えるのは、
アメリカLPGAツアーで戦うプロゴルファー上田桃子。
2011年当時、まだ25歳の彼女は出口の見えないスランプの真っただ中にいた。
アメリカの厚い壁が、上田の心と体を圧しつぶそうとしていたのだ。
日米通算17勝を誇る上田桃子は、よくも悪くも自身の危機に鈍感である。苦を苦とも思わない性格といえば分かりやすいだろうか。だからこそプロテスト合格に到るまでの猛練習にも難なく耐え、弱冠21歳で日本の賞金女王に輝くことができたのだ。その上田がアメリカLPGAツアー挑戦を表明したのは、賞金女王に戴冠して間もなくのこと。世界ランキングも自己最高の10位にまで上げていた彼女は、新たな舞台に意気揚々と乗り込んでいった。
「何か思いどおりにいかないなと、
すぐに感じました」
アメリカでの衣食住など環境の変化、そしてゴルフコースの芝の違いなど、すべては覚悟していたし、十分に対応できる自信もあった。「まずは1勝」――上田は戦いの中に身を投じていく。だが、肝心の結果がついてこない。
渡米した2008年当時は、スーパースターのアニカ・ソレンスタムがまだ現役。
ロレーナ・オチョアとの新旧女王対決に沸いていた。その後も、上田が尊敬してやまない宮里藍や台湾のヤニ・ツェンなど有力選手が、世界ランク1位を巡って火花を散らすなど、上昇志向の塊のような上田にとって、そこはたまらない舞台だったはず……。
「(自分のレベルが)劣っていたとは、今も思っていません。何かがかみ合わないんだけど、その何かが分からない状態でした」
だが、当初はそれを深刻にはとらえていなかった。むしろ、スターたちと同じ舞台で戦えることに喜びを感じていたのだ。
それが最大の原因であることにも
気づかずに……。
「まずは1勝」
それを果たせぬまま、アメリカで4年目のシーズンを迎えた上田は、さすがに焦りの色を隠せずにいた。最初のうちは、一時帰国して出場する日本の試合には勝てていたが、今はそれもない。次第にふさぎ込む時間が増えていった。その様子を、当時のチームスタッフ・西山修平さんは述懐する。「ある日突然、メンタルコーチを雇いたいっていいだしたんです。彼女の性格からすると、精神面を誰かに頼るなんてあり得ないことでしたから、これは相当まずい状況だと」だが、結局それは功を奏さず、上田は熊本にいる母へ電話をかけた。
『もう日本に帰りたい! 帰る!』
そんな上田に光が見えたのは、2011年秋の日米共同開催〈ミズノクラシック〉でのこと。濃い霧が一気に晴れたといい換えてもいいだろう。結果の出ない挑戦に『もう終わりにしよう』と、上田はいたって肩の力を抜いていた。
完全に開き直っていたのだ。それがよかった。通算16アンダーとし、プレーオフで強敵フォン・シャンシャン選手を下して米ツアー参戦後、初優勝を飾ったのである。そのときのゴルフを、上田自身『上田桃子のゴルフだった』と回想している。「それまではスター選手に囲まれて、自分のゴルフを見失っていたんですね」
女王ロレーナ・オチョアの類まれなショット力や、宮里藍の強靭なメンタルなど、多くのスター選手のストロングポイントを目の当たりにし、同じものを自身に求めた結果、積み上げてきた[上田桃子オリジナル]が瓦解していたのだ。
勝利の美酒を味わう上田の目に、再び輝く未来が飛び込んでくる。
傍らでは、前述の西山修平さんが号泣していた。
アスリートが真の強さを手に入れるために一番必要なもの、
それは『最大の理解者は自分自身』
であることかもしれない。
上田は隣の芝が青く見え、ずっとそれを欲してきたが、
自分の庭の芝も充分青かったことに気づいたのである。
それから12年、彼女は第一線で存在感を示し続け、日米通算17勝を積み上げる。
2024年シーズンを最後に、
ツアープロとしての活動休止を表明したプロゴルファー上田桃子。
その表情はどこまでも晴れやかだった。
上田 桃子
MOMOKO UEDA
Profile
1986年6月15日生まれ、熊本県出身。9歳の時に坂田塾でゴルフを始める。05年のプロテストで 一発合格し、同年「LPGA新人戦 加賀電子カップ」で優勝。プロ3年目の07年に「ライフカードレディスゴルフトーナメント」で念願のツアー初優勝を達成。続けて「ミズノクラシック」など5大会で優勝を収め、史上最年少で賞金女王を獲得。08年から本格的に米ツアーに参戦。17年には、強さと美しさを兼ね備えたゴルファーに贈られる「JLPGA SHISEIDO Beauty of the Year」を受賞。19年には生涯獲得賞金8億円を突破。20年「全英女子」で海外メジャー自己最高6位。22年「富士フイルム・スタジオアリス女子オープン」でツアー通算17勝目を飾る。24年「大王製紙エリエールレディス」をもって第一線から退いた。