

伊達 公子
KIMIKO DATE
Special Interview
ケガを機に、信頼を置いたコーチのもとを離れる決断をした伊達公子さん。
その先で彼女が得たものとは。
1989年秋、全日本テニス選手権準々決勝。
プロ一年目の伊達公子は、圧勝を目前にしていた。
だが突如、彼女はコートに倒れ込む。
足首の重度の捻挫で棄権……。
この日を境に伊達のテニス人生は大きな転換期と、
最大のピンチを迎える。
『これで終わっちゃうの?
そんなのイヤだ!』

悲劇の棄権。
その一年前、高校3年生の伊達は、インターハイでのシングルス、ダブルス、そして団体の3冠を達成した。すべては高校入学時から師事している、小浦猛志コーチとの二人三脚の成果だった。
翌年、伊達がプロ転向を表明してからも師弟関係は続き、あの準々決勝までは順風満帆、明るい未来が開けていたのだが……。優勝を目指していた試合を棄権、しかもプレー中でのケガは初めてのこと。ショックで茫然自失となってしまう。さらに追い打ちをかけたのが……。
「(棄権の後)小浦さんが激怒して……。一番信頼していた人だったので、
もう立ち直れないんじゃないかっていうくらい落ち込みました」ある意味、ケガは不可抗力。一瞬、小浦コーチへ不信感を抱いた。

捻挫の治療、リハビリ期間が続き、満足に戦うこともできなくなっていた伊達は、ある決心を固める。それは小浦コーチの下を離れること。そして、練習環境を変え事態を打開すること。
「(当時の拠点・関西よりも)関東のほうが練習環境も整っていて、練習相手にも事欠かないと思って、ひとまず東京に出ようと」
小浦コーチの下を離れるからには、もう後戻りはできない。その決断が吉と出るか凶と出るか、皆目見当のつかない中、はっきり自覚できたのはただ一つ。
「これは大ピンチだと、
正念場だと思いました」

案の定、といってもいいだろうか。東京に拠点を移した伊達は、ケガから復帰してもなかなか結果が伴わず、ランキングは下がる一方。
出口は見えなかった。
並の選手なら、恐らくはそこで諦めてしまっただろう。だが、伊達は苦境に立たされながらも黙々と練習に取り組み、何とか心のバランスを保っていた。そして、それは皮肉にも小浦イズムの実践に他ならなかった。「よいときも悪いときも、自分で考えて行動する力が自然と身についていたんだと思います」
小浦コーチは押しつけの指導はしない人だった。選手の適性を見抜き、選択肢を与えるのだ。後は選手自身が考え、決断し、やり抜くか否かは当人に委ねられた。「私から離れたんですけど、離れている間も小浦さんの教えを忘れることはなかったです。結局、それが私自身のベースだったんですね」
壁を打破する日はきっとくる。
伊達は信じて、ラケットから手を離さなかった。1991年8月、その日はきた。ロサンゼルスでの大会で予選から本選に勝ち上がった伊達は、準決勝で当時、世界ランキング3位のガブリエラ・サバティーニ相手に大金星を揚げると、決勝では当時の女王、モニカ・セレスと大激闘を演じたのだ。結果は準優勝だったが、これをきっかけに伊達は完全に低迷から脱し、世界ランキングトップ10へと駆け上がっていくことになる。さらに、この年の秋には因縁の全日本テニス選手権シングルスで初優勝。見事、負の遺産を清算し、伊達公子が本物のテニスプレーヤーになった瞬間だった。ちなみに、小浦コーチとは困ったときにふと連絡する関係が復活し、金言のアドバイスをもらうようになっていたという。師弟の絆は結ばれ続けていた。
トップアスリートたる条件には、
信頼に足る指導者との蜜月を経て、
自分自身の考えで決断、
行動する力を身につけることが必要不可欠だ。
伊達はそれを小浦コーチから学び、指導者となった今は、
教え子たちにその大切さを説いている。
「小浦さんなしでは、私のテニス人生は有り得なかったと思っています。
必要な時期の必要なコーチとの関係が、選手を大きく成長させるんです」
この後、伊達は、そのためには選手を手放す勇気がコーチには必要と続けた。
思えばあのとき、小浦コーチは伊達を諭して引き留めることもできたはず。
実のところ、小浦コーチは伊達を手放すことを決心し、
独立する力を授けてもらった伊達が巣立っていったというのが、
事の真相ではないだろうか。
伊達 公子
KIMIKO DATE

Profile
1970年9月28日、京都府出身。6歳でテニスをはじめ、高校3年生の時のインターハイでシングルス、ダブルス、団体の三冠を達成。高校卒業と同時にプロに転向。90年、全豪でグランドスラム初のベスト16入り。アジア出身の女子テニス選手として、史上初めてシングルス世界ランキングトップ10入り、日本選手21年ぶりのグランドスラムシングルスベスト4、日本女子選手初の全仏オープンシングルスベスト4、ウィンブルドン選手権シングルスベスト4進出など世界のトップで活躍。95年には自己最高の世界ランキング4位を記録するも、翌年26歳で現役を引退。08年、11年半のブランクを経て現役復帰。17年に二度目の現役生活に終止符を打つ。