

工藤 公康
KIMIYASU KUDO
Special Interview
現役時代はリーグ優勝14回、日本一に11回輝き、監督としては福岡ソフトバンクホークスを7年間で5回も日本一に導いた“優勝請負人”。
しかし、球界を代表するサウスポーにも苦悩はあった。そのピンチをどうやって乗り越えたのか?工藤公康さん流の考え方に迫った。
現在は野球解説者となった、62歳の工藤公康に尋ねた。
《福岡ソフトバンクホークスの監督を務めた7年間での最大の壁、ピンチとは?》
彼は熟考の後、つぶやいた。
「2016年シーズンのCS敗退ですかね……」

この年、ホークスはパリーグのペナントレースで、一時は2位に11.5ゲーム差をつけての独走状態にあった。ところが、最後は栗山英樹率いる北海道日本ハムファイターズに大逆転を許し、リーグ2位で進出したCS(クライマックスシリーズ)でも敗退してしまったのである。
リーグ3連覇、そして3年連続の日本一を逃し、工藤は指導者としてどれほど追い込まれてしまったのだろうか?だが、彼は続けて回答する。
「実をいうと、
壁という認識はないんですよ。
ましてや試練やピンチだとも
思っていませんでした」

工藤は現役時代、4球団を渡り歩き(ただし埼玉西武ライオンズには2度所属)、通算224勝をマークした日本球界のレジェンドサウスポーである。ただし、彼のキャリアを見ると、投手としては毎年派手な活躍をしていたわけではない。シーズンの最多勝利は1991年の16勝が最高で、一桁勝利に終わったシーズンも少なくない。だが、優勝を占うような大事な試合ではめっぽう強かった。
「チームが勝てばいいんですよ」
ノーヒットノーランを目前に、自分の記録よりもチームの勝利を優先させた
結果、それを逃したことは有名な話だ。また、行く先々のチームで相棒の捕手を育て、チームメイトに勝利への執念と準備の意識を植えつけていく。いつしか優勝請負人と呼ばれるようになった。

そんな29年間の現役生活の中で、工藤は幾度も選手生命を脅かされるケガや病気に直面してきた。特に、20代で肝機能障害を患った時には、自分自身もあきらめかけたという。しかし、工藤は苦難のたびに、それを自身の経験値として積み上げ、復活を遂げていった。こうした日々が、後に指導者としての彼の礎になったことは想像に難くない。
「壁とか、試練とか、ピンチとか、
僕はいつもそれを『失敗からの気づき』 だと考えています」
敗北を、いかに次の勝利につなげられるか?
指導者の工藤に、絶望する暇はなかった。
「敗北の原因を学び、対策を講じる。
この繰り返しです」
事実、工藤は普段から研究者のような一面も持ち合わせている。日常的に試合のデータや選手のコンディショニングを分析し、故障を防ぐトレーニングプランから強い組織作りのプランに到るまで、自分の手で組み立てた。彼の自宅には、それらをまとめた膨大な量のファイルやノートが並んでいたという。
「2016年のCS敗退で気づいたことも、もちろんあります」それは第三者に相談すること。別の側面からの意見、提案、時には反論に耳を傾けることで、工藤の目からうろこが落ちた。すぐに彼はそれを貴重なデータとして、新たな《勝利の方程式》を組み立てていったのである。
アスリート、そして指導者、彼らが超一流の領域に踏み入れるには、
敗北という名の失敗を、
次の勝利への糧にできるかどうかが重要ではないだろうか?
2016年シーズンCS敗退からの『気づき』を得た、福岡ソフトバンクホークス監督・工藤公康は、
翌年から退任までの5年間で、実に4度の日本シリーズ制覇を成し遂げた。
工藤 公康
KIMIYASU KUDO

Profile
1963年5月5日生まれ、愛知県出身。父親の勧めにより小学校3年で野球を始め、5年生からはピッ チャーとして活躍。名古屋電気高等学校(現:愛知工業大学名電高等学校)3年時には念願の甲子 園(第63回全国高等学校野球選手権大会)出場を果たした。その夏の甲子園では初戦となった2回 戦でノーヒットノーランを達成し、チームも4強入り。その後、ドラフト6位指名で西武ライオンズ 入りが決まった。プロ入り後も球界屈指のサウスポーとして活躍し、数々の記録を樹立。西武ライ オンズ、福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)、読売ジャイアンツ、横浜ベイスター ズ、埼玉西武ライオンズと渡り歩いたが、ライオンズ、ホークス、ジャイアンツで日本シリーズを制し たことから、優勝請負人ともいわれた。2011年末に現役引退を表明。2015年にホークスの監督に 就任し、2021年の退任までリーグ優勝3回、日本シリーズ制覇5回と、無類の勝負強さを発揮した。 引退後は野球解説などを努めている。長男は俳優の工藤阿須加、長女はプロゴルファーの工藤遥加。