

川上 憲伸
KENSHIN KAWAKAMI
Special Interview
大学時代の実績どおり、ルーキーイヤーから大活躍。将来を嘱望された中日ドラゴンズの投手は、思わぬ体調不良に見舞われていた。もがき、苦しむ。そんな選手生命のピンチを救ったのは、「必ず復活しろ」という一言を胸に、何が自分に必要かを考え、過酷な道のりにも耐えて実行したことだった。
明治大学硬式野球部のエースとして、東京六大学リーグ通算28勝。
ドラフト1位で入団した中日ドラゴンズでは、ルーキーイヤーに14勝。
ファン投票で選出されたオールスターゲームでMVP。
シーズン終了後にはライバルの高橋由伸(読売ジャイアンツ)を押しのけ、新人王を獲得。
名実ともにドラゴンズのエースの座に座った、川上憲伸。だが……。
「無理をしていたんですかね。
歯車が狂いだしたら、
もう元には戻れませんでした」

2年目の1999年シーズン、川上はエースとして開幕投手を務めるが、昨年のような勢いのあるピッチングは影を潜めていた。この年、チームはリーグ優勝を果たすが、8勝9敗の負け越しに終わった彼が、そこに貢献したとは言い難い。実はこのころから、川上は肩痛などの体調不良に見舞われていたのだ。2000年には沖縄での春季キャンプ中に[急性感音性難聴]を発症し、現地の病院で手術を余儀なくされ、この影響でシーズンたったの2勝。翌2001年は先発ローテーションこそ守ったものの、肩痛が顕著になり6勝10敗。3シーズンで16勝。もはや川上はエースではなかった。
「もがいても、もがいても浮き上がれないような感じ。地獄でした」
単なる不調では済まされない、選手生命の危機がそこにあった。

「弱気になっていて、藁にもすがる思いで、スピリチュアルなものにも頼りました」
悪化する肩痛で練習もままならなかった川上は、当時をそう語る。しかし、『藁にすがってでも、あきらめる気はなかった』というのが正解ではないだろうか?事態を変えるきっかけとなったのは、彼自身の[聞く耳を持つ]姿勢だった。ドラゴンズでも肩の治療計画を立ててくれてはいたが、知人からのアメリカの最先端医療を受けてはどうかという助言に、川上の心は揺れる。そんなとき、当時の山田久志監督の言葉で決心は固まった。
「好きなようにやれ。
そのかわりに必ず復活しろ」

自身が奇跡と呼ぶ、
復活への4カ月が始まった。
渡米した川上は、予想どおり要手術の診断を受ける。だが、当時は今よりも肩にメスを入れることのリスクは高く、事実、日本で川上の肩を診ていた医師は、手術には否定的だったという。必ず復活しろ――山田監督の言葉が脳裏を駆け巡った。
すると川上のもとに、手術の効果にも匹敵するリハビリ法の情報がもたらされる。肩を徹底的に鍛える決して楽なものではなかったが、リスクは手術ほど高くはない。即決した川上は、すぐにリハビリトレーニング方法の指導を受ける。
そしてこの1週間で、もう一つの復活へのヒントを得る。たまたま目にした、アリゾナ・ダイヤモンドバックスvsニューヨーク・ヤンキースのワールドシリーズでのこと。
ランディ・ジョンソン(MLB通算303勝)、カート・シリング(通算216勝)、ロジャー・クレメンス(通算354勝)たちの投げ合いに胸躍らせる中、川上の目を釘づけにしたのは、ヤンキースの抑えのエース、マリアノ・リベラ(MLB通算652セーブ)のカットボールだった。スライダーよりも曲がり幅が小さく球速が出るこのカットボールに、メジャーの強打者が手も足も出ない。当時の日本球界には浸透していなかったカットボール。これを自分のものにし、投球術の幅を広げたい……。帰国後、川上は4カ月に亘る過酷なリハビリの裏で、リベラのカットボールの研究に没頭した。
そして2002年シーズン。肩痛が癒えた川上は、強化されたその肉体で先発ローテーションの一角を担い、8月の読売ジャイアンツ戦でノーヒットノーランを達成。シーズン12勝6敗、見事な復活劇となった。
第三者の意見に素直に耳を傾け、最善を取捨選択する判断力。
トップアスリートがトップアスリートたる所以はそこにある。
我を通すだけでは到達できない領域が、確かに存在するのだ。
川上は長い野球人生の中で、この柔軟な姿勢と
判断力で幾つものターニングポイントをクリアしてきた。
その最たるものが、3年に亘る不振、地獄からの生還だった。
地獄からの生還、その経験は、翌2003年の右肩関節辱損傷と
左太腿肉離れでシーズンを棒に振った時にも生かされた。
『アスリートである以上、
ケガはつきもの』。
川上は何ら焦ることなく治療に専念し、
翌年からの4シーズン連続二桁勝利、
そして投手最高の栄誉・沢村賞を手中に収めたのである。
川上 憲伸
KENSHIN KAWAKAMI

Profile
1975年6月22日生まれ、徳島県出身。小学校6年で野球を始める。ポジションは内野手(ショート)だったが、徳島商業高校2年から投手に転向。3年生の1993年には夏の甲子園に4番・エースとして出場した(ベスト8)。その後、明治大学に進学して28勝をマーク。1997年のドラフト会議で中日ドラゴンズに1位指名を受けた。期待どおり1年目から活躍し、14勝を挙げ新人王も受賞。その後、体調面での不調により落ち込んだシーズンもあったが華麗に復活し、2002年8月にはノーヒットノーランを達成(21世紀初)。2009年には大リーグのアトランタ・ブレーブスに加入し、2012年に中日へ復帰、2015年に退団。現役続行のためにリハビリ等を続けたが、2017年3月19日、正式に現役引退表明という道を歩んだ。日本での通算成績は117勝76敗。大リーグでの通算成績は8勝22敗。現在は解説者などの活動を行っている。