CROSSOVER BOOK | JAN 2023

心を動かすスポーツ SportsDocument CROSSOVER BOOK008

松本薫

柔の分かれ道[柔道女子57kg級元日本代表]

アスリート人生に壁が立ち塞がったならば。それは自分が成長するチャンスが訪れたと言うことだ。

CROSSOVER BOOK008

松本 薫

KAORI MATSUMOTO

Special Interview


揺らぐことのない目標を持ち続け、幾度となく立ち塞がる壁に戦い続けた松本薫さん。
その道のりの中で、すべてはつながっていると感じたという、彼女の真意に迫ります。

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Special Interview KAORI MATSUMOTO

あるときは<野獣>、
ある時は<オオカミ>。

そう呼ばれてきた彼女は、持って生まれた格闘の才と、厳しい練習で培った体力で、数々の日本のジュニアタイトルを手にしてきた。

だが、上京しての柔道名門高校時代には、その日々に嫌気がさして、地元・金沢に逃げ帰った過去もある。その影響で3年生時のインターハイには制度として出場できないという、空白の時間を作ってしまった。このころを後の金メダリスト・松本薫の、アスリート人生最大の壁と見る向きもある。

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Special Interview KAORI MATSUMOTO

しかし、彼女自身は苦い思い出と認めながらも、壁かと問われれば一笑に付す。

「子供だったんですよ」

幼いころから、強烈なまでの負けず嫌い。それだけで柔道を続けていた松本には、真に強くなりたいという思いも、高い理想も持っていなかったのだ。そんな彼女がオリンピックメダリストを志すようになると、本物の分厚い壁が立ちふさがる。

2006年、松本は帝京大学へ入学すると、すぐに現実を思い知らされる。「ジュニアからシニアに切り替わる辺りかな? シニアの選手って、まるでレベルが違う。何度もあっさり投げられて、天井を眺めるのは屈辱ですよね……」

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Special Interview KAORI MATSUMOTO

すでに高校時代の甘い考えは消え失せ、自分がどこまで行けるかに目標を定めていただけに、

シニアの有力選手たちとの
圧倒的な差は、
最初の壁となって立ち塞がった。


「こんなこと、今だけだぞって強がっていましたけど、どうにもならないもどかしさに苦しみました」ひとまずの解決を見たのは、当時の帝京大学柔道部監督・稲田明さんの存在にあった。稲田監督は、<やわらちゃん>こと谷亮子選手を育てた名伯楽。彼は松本に、柔道の楽しさを教えてくれたのだ。「勝気に逸る柔道はもろいんです。冷静な判断もできません。悩んでいたとき、稲田監督が私の柔道に<楽しむ>感覚を植え付けてくれたんです」強い相手と当たれば喜び、厳しい試合展開を楽しんだ。すると、歯の立たなかったシニア選手たちにも、自然に勝てるようになっていた。

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その後も松本薫には、ロンドンオリンピックを迎えるまでに二度、三度と大きな壁が立ちはだかる。国際大会に出場するようになると、序盤敗退が続いたときは

<世界>との壁を感じた。

2008年、初めての世界選手権では、試合中に右手の甲を骨折。優勝を期待されながら5位に沈んだ。このときには、自分の柔道スタイルに関わる重大な決断を迫られた。「勝ちたい!きれいに投げたい!そんな感情を抑えきれない、私の突っ込み型の柔道があのケガにつながったんです」

4年後のロンドンオリンピックでメダルを獲るには、これ以上何が必要だというのか?松本は答えを探してもがいた。そして、あるとき気づく。勝利のために臨んでいた試合で、彼女はいつの間にか<負けない柔道>に終始していたのだ。

「勝ちたい気持ちを通り越して、
負けることが怖くなっていたんです」


そこで取り入れたのが、冷静に一歩引いて自分を客観視すること。松本はこれまでの柔道スタイルに、冷静さというものを丁寧に積み上げていった。不必要にカッとしない、怯えない。この時も、稲田監督の教え「柔道を楽しむこと」が、彼女の頼りになった。そして試行錯誤を続け、2年後の2010年、松本は国際大会のワールドマスターズ初代チャンピオンに輝き、続くヨーロッパのグランドスラム大会では、オール一本勝ちでの優勝を果たした。

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Special Interview KAORI MATSUMOTO

松本に幾度も立ち塞がった壁。
彼女はそれを、数年に渡って続いた、一つの分厚い壁だと認識している。
「一つ解決しているうちに、次の問題が重なってきて……。
結局、全部つながっていたんですよね。ロンドンオリンピックのために。
私の柔道人生最大の壁でした」

揺らぐことのない崇高な目標。

それを持つアスリートは、
たどり着くまでの道がどれだけ険しくとも、労をいとわない。
その道程こそが、自分を強くしてくれるからだ。

2012年7月のロンドン。
柔道女子57㎏級表彰式の後、
松本薫は首から下げた金メダルにかじりついた。

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松本 薫

KAORI MATSUMOTO

Profile


1987年9月11日生まれ、石川県出身。
2007年にシニア全国大会で初優勝。2009年にはグランドスラム・パリ3位、ワールドカップ優勝。
2010年は、ワールドマスターズ、グランドスラム・パリ、グランプリ・デュッセルドルフ、
グランドスラム・リオ、世界選手権、アジア大会、グランドスラム・東京と出場した7大会すべて
で優勝。2012年には世界ランキング1位となる。同年、ロンドン五輪にて金メダルを獲得。
これにより、オリンピック、世界選手権、ワールドマスターズ、すべてのグランドスラム大会を
制覇した初の柔道家となった。